2009年7月 2日 (木)

コトバのチカラ

数年前からお付き合いのあるミュージシャンさんにお誘いを受け、
今週土曜日=7月4日にとあるライブに出演することになった。

“ライブ”とは言っても、歌うとか演奏するとかじゃない。
いわゆる“トーキングライブ”である。
言葉によるパフォーマンスをするライブ。
歌や演奏はなっすぃんぐ。
とことん“コトバ”。

ずっとコトバを生業にしてきたことを、
その主催者は知っていて声をかけてくれた。
大変ありがたいことだ。
実は数年前から“歌い手として”ステージに立ちたいと思っていた。
もちろんずっと歌ってきた人々からは相手にされるわけでもなく。
それでも“ステージに立つ人”と認識されたことをしっかり感じて、
このお申し出を受けることにした。

とにかく『コトバによるパフォーマンス』という以外に括りはなし。
一度ミーティングをした。
出演者のうち半数ちょっとが顔を見せた。
が、手の内は見せない(笑)
みんなが何をするかわかってから、自分のやることを決めようと思っていたが、
それは無駄な目論見に終わった。

そして、本番まであと2日をきった。
が、そこから何ら変わっていない。
出演者の一人は既知のミュージシャンだが、彼女はやることの一部を日記でもらした。
なるほど。
でも私のネタは何一つ決まらない。

原因は一つわかっている。

それは、出演順が当日にならなければわからないということだ。

○○さんの出番が20時だから、それに合わせて行く。
とか
△△サンの出番が終わったから帰ろうかな。
とか…
そういうのをさけるために、出演順は当日開演直前にくじ引きで決めることになっている。

実は…思っていた以上にこれがネックだった。

だってさ…
最初にやるのと、最後にやるのと、真ん中へんでやるのって
ゼッタイ違うと思うんだよね。
その出演順に応じた内容っつーのがあるんじゃなかろうか、と思うわけで。
とりあえず、(次の人のことは気にしないとして)自分の前の人が何をやるかで
内容を決めてもいいような気がするのだ。
朗読の人もいれば、手紙を読む人もいるし、一人芝居の人もいる。
自分の前の人とかぶらないようにすることが無駄なこととは思わない。

が、しかし。
主催者からの通達として、順番は当日決め、内容は当日までナイショでOKとなっている。
私が異を唱えてもしょーもないことなので、私はこのルールに則って自分のやることを考えようと思った。
そしたら!
構築ができないのである。
私にとっては、最初でも最後でもやることが一緒だなんて考えられない。
前の人が何をやるかによって、多少なりとも違うはずだと思っている。

が、ルールは決まっている。
誰もそれに意義を唱えていない。
ということは。

構築できないままやるしかない。
だとしたら、考えるだけ無駄だ。
考えないことにした。
いや、ちょっとは考えるよ、そりゃ。
ただし、原稿を書いたりはしない。
その瞬間にある空気を大事にしたい。
ってことは、事前に決められるはずもない。
そのときにしゃべりたいことをしゃべる。
それしかないじゃん。
つーか、今までもそれでやってきたんだし。
ダテに喋りの仕事を20年もやってるわけじゃない(と思いたい)。
そのときに話題がみつかれば、それでできるはずだ。
なんたって“コトバの力”を感じさせるライブなのだ。
事前に決めきったことをやることが、それを成し得るとは思いがたい。

出演者一人に割り振られた時間は15分。
私は決してウケを狙ってはいないし、
感動の涙も期待していない。
私が目指すのは、気づいたら15分経っていた、という感覚だ。
つまり飽きなければいいのだ。
取り立てて面白い必要はない。
そんなのはコトバの力とは違う。
笑うことや涙を流すことは、充実感みたいなものの最もわかりやすい形であることは確かだが、コトバ本来の力ではない気がするのだ。
感情を揺さぶられるのとは違う、なんとなく“惹きつけられるもの”。
それが目標だ。
こんなことを色々書きながらも、不安がないわけではない。
本当に準備なしでいいのか??

んなことはやらなきゃわからない。

できるだけ心を柔軟に保つことだ。
自分の話を聞いてくれる人が目の前にいる。
それだけで喋ることができるんじゃないだろか?
それだけで喋れる自分でいたいのだ。
どうなるのかな。
わからない。
ちょっと怖くて、ちょっと楽しみ。

も~~~
ダメだっていいや。
ある意味『自分試し』だ。

…と開き直りつつ、
まだやっぱり不安を捨てきれない自分がいたり。

このライブが終わったら、何かしら今迄と違うものがみつかってますように。


ちなみに今週のライブはこんな感じです。

↓↓↓

**************************************************

音楽観光第14回 「言葉の夜」

7月4日(土)、大和ハギンズ・ビーにて
http://home.catv.ne.jp/ff/hagin/
19:00開演 1500円+オーダー

言葉によるパフォーマンスの『音楽観光』です。
詩 歌詞 物語 一人芝居 等々。

出演者
さとうゆみ たかよし Ro-mio
内藤たいと Chikako from Monkeymelon
タイチ いしはらとしひろ 斉藤美帆 

***************************************************

あ、私の名前は一番最後のヤツね。
もちろん本名ぢゃなくってよ(笑)

よろしければお越しください。
受付で私の名前を仰ってくださいまし。
(でないとノルマが…_| ̄|○)

さて、ノープランであることに、どこまで耐えられるんだろか。
それがまず謎^^;


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2009年6月21日 (日)

春夏秋冬

前々から「『青春』っつー言葉は、なんで『青い春』なんだよ」なんて思ってた。
じゃぁ『赤い夏』とか『茶色い秋』とか『灰色の冬』とかあるのかよ!?
なーんてことも思った。
私だけじゃなく、同じ様なことを思った人は結構いるはず。

んで、それに関して興味深い話を聞いたので、今日はそれを。

もともと中国の思想で、人生を4つの季節にわける考え方があった。
季節だけじゃなくて、方角や色、動物と合わせた考え方で、それは万物の素は『五元素(火水土木金)』から成り立っているという考え方に由来する。
人生を4つに分けて、春夏秋冬になぞらえたのだが、日本人のイメージからすると、生まれてから思春期までが春で、その後夏~秋~冬と続いていくように思われがちだが、実はこれが違うのだという。
元来の考え方としては、人生の季節は冬から始まるのだとか。
これを五元素とか色とかとリンクさせて春は青で『青春』なんだって。
ちなみに夏は『朱夏』、秋は『白秋』、冬は『玄冬』なんだって。
これが聖獣に当てはめられると、『青龍』『朱雀』『白虎』『玄武』となる。
まぁ聖獣は置いておいて…

人生は冬から始まるってことについて。

いまや日本人の平均寿命は80年。
(4で割りやすいから80年ってことにしといて!)
オリジナルの考え方だと、
0~20歳 が玄冬。
21歳~40歳 が青春。
41歳~60歳 が朱夏。
61歳~80歳 が玄冬。

確かに未成年のうちは、それなりに楽しいけれど、自分が自分の責任で何かをすることはできにくいし、たいていは大人の庇護下にあるわけだから、上から課せられることも多々あったりする。
そういうものから放たれて自分の考えで自分のやりたいことをできる環境が整うのは20歳すぎで、そこからは何とか芽を出そうと必死だ。
とにかく前へ、上へと進みたがる。
なるほど。春の芽吹きだ。
そして不惑といわれる40代を迎えて、はじめて上へ前へ伸びたり進んだりすることではなく、豊かな実りへ向けての日々が始まる。
60代はそれまでに実ったものを収穫する時季となる。
自分たちが豊かになることももちろんだが、余剰があれば周囲の人々にその恵みを分けるような年代とも言えるだろう。

どうも人生の終わりが『死』であり、それがあまりいいイメージではないことから、人生の終焉を『冬』に定義しがちのようなのだが、それではあまりに今後が寂しすぎる。
植物に、とりわけ『稲』に例えるとわかりやすいと思うのだが、春は田植えをし、雨風にも負けない根と茎を作る。
しっかり育ったところで、夏を迎え、実をつける。
小さな実がだんだん肥えていく時季だ。
人生の終焉は収穫期。
そう思うとまだまだこれからだと思える。

20代半ばの女性が誕生日を迎えて「もうオバさんになっちゃった」とか「若くない」なんて言うのは100年…いや、50年早いってもんだ。
春や夏も冬に向かっているのだと思うと、テンションも下がってしまうのだが、豊かな実りの秋が人生の終着だと思うと、これからやるべきことがまだまだあるのだと思える。
気の持ちようでこれほどまでに違うものなのだろうか。
そう考えると、いわゆる『思想』というやつはバカにできないなぁと思う。

で、私自身はどうなのか、と問うてみる。

ちょうど春から夏に移行する時期のはずだが…
そろそろ実をつけてもいいころのはずだが…
その自覚がまるでない。
確かに『青春』のころは、前に進もうと、上へ伸びようと必死だった。
できるだけたくさんの日光を浴びられるように、こぞって上へ伸びる。
誰よりも早く、誰よりも高く…と。
勝ち負けのある“勝負”の生き方だった。
が、背の伸びが止まったであろう今、まだ実をつけていない気がするのだ。
これから成熟させていくべき“実”がなってない。
そしてこのまま、実がならないまま『白秋』になってしまいそうで怖い。
まだ夏を迎える準備ができていないように思えてならない。
いつまでも春の気分で前へ上へとばかり考えていて、気づいたら秋を迎えているのに“実”をつけてないじゃん!…みたいな感じ。

秋を迎えるまでに、なんとか実をつけたい。
幸い、まだ時間はある。
数は少ないかもしれないけれど、おいしい実を収穫したい。
できるかなぁ…できるといいなぁ…。

もうすぐ夏だ。私の。
単なる夏じゃなくて『朱夏』だ。
いいなぁ、朱夏ってことば。
赤でも紅でもない“朱”ってとこが。
新しいペンネームとか芸名にでもしようかな…。
今から秋を迎えるまで使うには、すごくいい言葉(名前)のような気がする。
んで、60歳過ぎたら『白秋』って変えたりして(笑)
ま、それは冗談にしても…
秋に向けての大切な時季であることは、きっと間違いない。

みなさんの今の季節はいかがですか?


ちなみに人生を季節になぞらえるのは多々あることだけど、
10代後半からが『青春』と定義づけしているものが多いよう。
結局のところ、どれが元々の説なのかはわからないけど、
『冬からはじまる』という方が理にかなってるように思えたので、
知人から聞いた説を採ることにした。
もしかしたらこの説に対して「それ違うだろー」という方もいらっしゃるかも知れないが、
そこは…諸説あるんだ、と理解していただきたい。
ま、共感できてナンボだからね^^;






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2009年6月 6日 (土)

どっちもどっち

通勤時、行きはバス、帰りは徒歩ってことが多い。

昨日の出勤時にバスに乗ったときのこと。
私がバス停に到着した時には、既に若い女の子が3人並んでいた。
彼女たちは連れ同士で、みんなキレイにメイクしてネイルも凝っててオシャレで…さながら孔雀のようだった。
バスは10分も遅れて来て、彼女たちに続いて私が乗ると…彼女たちは並んでシルバーシートに座っていた。
なんとなく違和感はあったけど、まぁ、譲るべき方も見当たらなかったし、あくまでも『優先席』であって、『若者禁止席』ってわけじゃないし…。
次のバス停で、70代くらいの男性が乗ってきた。
バスの扉が開くや否や、
「10分だよ! 10分も遅れてるよ!」
誰に言うともなく大声で言う。
そして5人が横に座れるシルバーシートへ座った。
そう、孔雀ギャルの隣である。
その大声じいさんの横にはこれまた同世代の(連れではないらしい)男性がすわった。
孔雀さんたちはそんなじいさんにはお構いなしで、各々メイクを直したり(直すほど崩れてもないのに~!)、サンドイッチを食べたりしていた。
大声じいさんはチラチラとその孔雀さんたちを見ていた。
何か言いたげで、でも言わないで…。
少しすると、大声じいさんは、隣のもう一人のじいさんに話し始めた。
「近頃は若い子も座るんだねぇ。昔は座らなかったもんだ」
「普通は若者は立つもんだ」
なんてことをあれこれ。
思いっきり、孔雀さんたちに聞こえよがし。

がっ。
孔雀さんたち、一向に意に介さず。
しっかりと優先席に座ったまま、自分たちのペースでメイクやら何やらを続けている。
誰も大声じいさんをチラリとも見ない。

なんかすごい。
対決してるんだかしてないんだかわからないけど、異様な空気。

で、そんな大声じいさんVS孔雀ギャルの様子を横目で見ながら考えた。

どっちが正しい????


よく考えてみたら、どっちもどっちじゃあるまいか?
混んで来て、譲ってあげたほうがよさそうな年配の女性(決して老人という感じではないんだけど)がいても、平気で優先席に座り続けている孔雀さんたち。
直接言わずに聞こえよがしにイヤミを言う大声じいさん。

なんだかなぁ…。

あと前々から思っているんだけど…
優先席って『老人専用席』じゃないよね。
高齢の方とか怪我してる人っていうのは、ビジュアル的にわかるから優先されやすいよね。
でも妊娠初期の人とか、単に体調が悪い人っていうのは、外から見てもなかなかわかりにくい。
実際私も経験あるのだけれど、ひどく具合が悪くて、空いている優先席に座った。
すると、「私は高齢だから譲ってちょうだい」と言わんばかりの老婦人が私の目の前に立ち、じっとこちらを見る。
そりゃね、元気だったら譲りますよ、
つーか、元気だったら優先席に座らない。
でも具合が悪いんだよぉ…。
そのとき思った…
『「あんた若いんだから私に席譲りなさいよ」なんて無言のオーラを出せるほどのエネルギーがあるなら立ってやがれっ!」
もちろん口には出さなかったけど…どれだけ口に出したかったことか。
こんなにイヤな思いをしなければ、若者は座れないのか??
なんだか変だ。
いぢわるな私はそこでオーラ満点の老婦人に席を譲って、その目の前で倒れてやろうかとさえ思った。
無論、実行しなかったけど。

そう考えると、『優先席』ってなんなんだろうと思う。
優先されるべき人が優先されないから作られたんだろうね。
だとしたら…そういう席を作るというハード面での対策ではなく、自主的に譲ろうという気持を持ってもらうようなソフト面での対策が必要だったのではなかろうか?

いつから『優先席』とか『シルバーシート』っていうのが登場したのかは定かではないけれど、私が幼少期にはなかったような気がする。
(そういう意識がなかったから知らなかっただけなのかなぁ?)

これから高齢化社会がいっそう進むよね。
ってことは、「自分には座る権利がある」と思うような人が増えるってこと。
そうなると、見た目にはわからない「座らせてあげたい人」「座って然るべき人」っていうのが、座りにくくなるのかな。
それはちょっと…どうなんだろう??

自分の権利を主張するんじゃなくて、自分が人に何を出来るか、ってことに焦点を置いたら、こんなことは起きなくなるんじゃないかなぁって思ったりもする。
高齢者が増えるってことは、今まで“社会的弱者”と定義付けられてきた人が増えるってことだもん。
このままで大丈夫、なんてことはないだろう。

今40歳の人が60歳になるまで20年ある。
が、今の60歳の人たちは80歳。
女性の平均寿命考えると…まだまだ!って感じだ。
長寿化しているんだもんね。
それとともに若者も増えているのなら問題はないけれど、少子化ってことで、若者の数は減っている。
ってことは、今までと同じ様に『高齢者の権利』を主張したって、それに応じてもらうには、若者の数が少なすぎるってことになるんじゃないかなぁ。

今現在、私は“若者”というには高齢で、かといって“高齢者”といわれる年齢にもなっていない。
今は『高齢者予備軍』といったところか。

今のうちから『高齢者増加&若者減少』時代に向けて、今までとは違うんだということを考えていかなければならない年齢なのかもしれない。


ちなみに…。

件の孔雀ギャルVS大声じいさんの対決は、その結末を知らぬまま、私が降車してしまった。
あれからどうなったのかな…なんにも起きてないのかな。
できればどちらかがハッキリ相手と言葉を交わして欲しかったんだけどなぁ^^;



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2009年5月31日 (日)

『ドキュメント 死刑囚』を読みました。

今月から裁判員制度が始まった。
賛否両論あるし、実際にその制度に対する評価というのを語るには早すぎる。
そして、誰が何を意図してのことかは知らないが、テレビドラマでも裁判員制度を題材にしたものがいくつもお目見えしている。
それに刺激されたわけではないが、先日こんな本を読んだ。

『ドキュメント 死刑囚』
Photo 近所の本屋で何となく目に付いたから。
ただそれだけの理由で買った。

…っていうのはウソかも。
以前から『裁判』とか『犯罪』に関する書物(小説・ドキュメントに拘らず)に興味があった。
実際に起きた事件のドキュメントを読むのが好きなのだ。

この本の中に登場するのは、主に三人の死刑囚だ。
幼女連続殺人の宮崎勤、奈良女児殺害事件の小林薫、池田小学校事件の宅間守。
いずれも私が大人になってからの事件なので、どれもよく憶えている。
まるでドラマか小説のような、自分の現実からは想像もできないような事件だった。
彼らが何故そんなことをしたのか、興味があった。
もしかしたら自分もそうなってしまう要素があるのではないかと思うこともしばしばあり、それを肯定したいような、否定したいような、不思議な気持ちでそれらの事件を見ていた。
この本の著者は雑誌『創』の編集長で、死刑囚の彼らと面談したり、書簡の遣り取りをしていた人物。
月刊誌の編集長をしながら、彼らとの遣り取りをすることは、非常に大変なことだったのだと思う。
だってそこには社交辞令だとか、上っ面の遣り取りということでは到底できない重さを感じるのだから。
死刑を宣告された事件を起こした彼らは、もちろん許されるはずもなく、命を以って償うべきだという考え方があるのは理解できる。
一方で、『命を以って償うべき』か否かを、人間が判断していいのか、という疑問が生じるのも頷ける。
どんなことでもそうだが、物事は一方向からの眺めで判断はできない。
常に問題となる死刑の是非も、個々の事件の加害者が担うべき罰も、どこからそれを見るかによって異なってしまう。
きっと誰にしても、そこに唯一の答えを見出すことなどできないのだろう。

『死刑』は犯した罪に対する『罰』であるのは言うまでもないが、一方で『犯罪抑止』の効果があるものだとの声もある。
が。
ホントにそうなのか???
この本の中で、小林薫は幼女を“誤って”死に至らしめてしまった後、死刑になろうと思ってさらに酷いことを色々行った(敢えて書かないケド)。
宅間守も死刑が決定した後、早く執行して欲しいと願っていた。
宮崎勤は死刑の判決を受けながら、いつも用意されているテーブルがないので、頬杖をつくことができず、どんな姿勢をとればいいか考えていたという。
彼らにとって、『死刑』が犯罪抑止になるとは思えない。

もちろん彼らは多々種々ある事件の中でも特異中の特異と言える事件の犯人だ。
精神状態が普通じゃない、との見方もあるだろう。
が、よく考えてみれば、犯罪を犯すこと自体、精神状態が普通じゃないんじゃなかろうか?
自分が死刑になるかならないかを考えて犯罪に走るとは考えにくい。
特に殺人ともなれば…考える余裕がない状態か、或いはどう考えても…死刑になってでも相手を消したいかしかないように思う。
「死刑になっちゃうから殺すのやーめた」ってくらいなら、初めから殺人に至らない気がするのだ。
それじゃ、死刑制度はなくなってもいいのか?
そこもまた微妙。
だって一人殺しても、三人殺しても、別に死刑になるわけじゃねーし…という状態もいかがなものかと思えるからだ。
ということは。
犯罪抑止にはつながらないけれど、制度としてはあるべき。
…なのか?

実のところ、よくわからない。
自分が裁判員になったとして、それが死刑か否かを決定しなければいけないような事件だったとしたら…すごく悩むだろう。
他人の生命を奪った者が己の生命で償う。
奪われた命は帰ってこないし、金品に替えられるものでものないわけだから、被害者の家族のことを思えば、この理屈を突きつけたい気持ちになるかも知れない。
しかし、それを自分が決定することができるのか。
被告の生命を絶つ権利はないはずだ。
それを命じたら…きっと図らずも自身が殺人を犯したような気持ちになってしまうのだろう。
それをずーっと持ち続けながら生きていくのはツライだろうなぁ。
そう思う人、多いんじゃないかなぁ。
ってことは。
裁判員制度の導入で…死刑が減ることも有り得るかも??
ま、誰もが私と同じ感覚ってわけじゃないだろーけど。

昨日の夜、フジテレビで二本連続で裁判員制度が取り入れられたドラマを見た。
いくら制度が始まったばかりで、キャンペーン的に扱うとはいえ、二本連続ってどうよ?って感じだった。
一本は単発ドラマの『サマヨイザクラ』。
続いて連続ドラマの『魔女裁判』。
どちらも別につまらないわけじゃないんだけど…
まぁ、正直有り得ない事件と有り得ない犯人と有り得ない法廷シーンで…
裁判員制度の実態は掴めないと言ってもいいだろう。
ドラマだからね。それでいいんだとは思う。
でもそれだけに、つい最近読んだこの『ドキュメント 死刑囚』の真実に感じるものがあるのだ。
もちろん死刑囚だってこの本に取り上げられた人々だけではないのだから、これが全ての真実というわけではないけれど。

『事実は小説より奇なり』・・・この一言に尽きるのかもしれない。

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2009年5月10日 (日)

オーディション

GWを目前に控えたある日、某オーディションを受けに行った。
それは演劇や映画の役者ではなく、かと言って歌や音楽でもなく…
芸人というか、広い意味でのアーティストというか。人前に出るモノで。
そのオーディションがあることを知ったのは、実施日より10日ほど前だったろうか。
何かのメールマガジンにさりげなく募集要項が載っていて、釘付けになった。
「これ受けたい」と突然思った。
理由はよくわからない。
もちろん今までの経歴(芸歴)が役に立つ可能性が高いであろうことは、すぐに気づいたけれど、せいぜい“役に立つ”程度だし、それが理由ではなかったと思う。
言ってみれば、単なる『直感』である。
さて、その直感を信じていいものか?
これはかなり迷った。
今はバイト生活だが、仕事に…仕事そのものにも職場の環境等にも大きな不満はない。
MCの仕事もたまにできれば、そこそこ楽しめるので、やりたいことができていない、という気持ちもない。
受けるか否か、気持ちが行ったり来たりしながら数日過ごした。

結局、オーディションを受けることにした。
実は応募を締め切った後だったようだが、「せっかく希望していただいているので」と、何とか滑り込んだ状態だった。
仕事も休みをとった。
その代わり、休みだった日に朝7時から出勤になってしまったけれど、これは自分が言い出したことだからしょうがない。

オーディションは第一部と第二部の二組に分かれていた。
私は第二部組。
一部と二部とで受験番号が通しで振られていて、全部で160名位いたようだ。
内容は実技と面接。

実にいろんな人がいた。
年齢も20歳から80歳くらいまでいたらしい。
印象を強く残したいという意図なのか、奇をてらった服装の人もいたし、見るからに「僕、やる気まんまんです!」オーラを出している人もいた。
それは正直、滑稽なほどでもあった。

私はというと…実に淡々としていたように思う。
昔は、オーディションと言うとものすごく張り切ったし、目立ちたい、印象に残って欲しい、と躍起になっていたものだった。
今回はそういうのナシ。
自分ができることをやっただけ。
背伸びなし。
昔は背伸びしっぱなし。
終わってから、何の感想も持たなかった。
「ハイ、おしまい」って感じだけ。
最終的には10名程が合格するというオーディション。
160分の10ってことは、16分の1ってことで、%に直すと…6.25%かー。
まぁ、これは合格とかないだろうと思った。
自分が上手かったか下手だったかは全く気にならなかった。
とりあえず思ったのは、「受けずに後悔するより、受けた方がマシだよね、やっぱり」ってことと、「この年齢になってもこういう場に出てこれる自分でいなければイカンなぁ」ということくらい。
結果は郵送しますとか言ってたけど、それもどーでもよくなっていた。

そして一昨日だったか…電話があった。
オーディションの主催者からだった。

「ぺんさん、1次合格しましたので」

え。 合格? なんじゃそりゃ。

ちょっと意外な展開。
聞けば、最終的に10名にする前に、1次通過者は20名位いるのだそうだ。
この20名が面接の末、10名位になるらしい。

ってことは12.5%の合格者の中に入ったってことか。
実を言うと、それほど嬉しくない。
最終面接の為にまた仕事を休まなければならない。
それを申し出るのがまたイヤだ。
職場の担当者は、私がスケジュールの変更を申し出たところで、イヤミを言ったりもしないし、快く…とまではいかないまでも特にペナルティを課すこともなく応じてくれるだろう。
でも私は後ろめたい気持ちになるのだ。
それがメンドクサイ。自分自身の気持ちがメンドクサイ。

とはいえ、オーディションに合格したことが嬉しくないわけではない。
「何だよ、アタシって才能あるんじゃん?」な気持ちがちょっぴりある。
最近、どんどん年食っていくばかりだし、身体能力も見た目も衰えていくし、これといって何ができるわけではないし…
なんて弱気になることがちょくちょくあったが、それを払拭できそうだ。
完全に、ではないけれど、それなりに。
まだ大丈夫そうな自分を発見できたことが、一番の収穫だ。

結局何のオーディションだったかと言うと…

それは…何かこっぱずかしいので、そのうちに。

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